日本語の勉強をはじめる

英語を勉強したことによって、会社の役員との
情報共有もより深いものとなったことによって
私の日本生活も次第に快適になっていきました。

また、役員以外の社内の日本人スタッフとも英語で
会話ができるようになりました。その頃、
英語が話せる日本人スタッフが増えたことも
私にとっては幸運なことでした。

そして、日本人スタッフとも英語で話ができるように
なったことで、日本人スタッフから少しずつ
日本語を教えてもらえるようになりました。

また、私が入社する以前より勤務していた
日本人シェフの1人がヒンディ語が話せる方でした。
彼は別のインド料理店から転職してきたのですが、
前の会社では、同僚のインド人とアパートで
同居していて、その時にヒンディ語を覚えたそうです。

自分の言葉で話せるというのは、私にはすごく
うれしいことで、彼からも日本語をたくさん
教えてもらいました。

そんな様子で英語を経由して少しずつ日本語も
覚えはじめていた私だったのですが。
そんな時、決定的な出来事がありました。

ある夜寝ていたら、私はハンパない激痛に襲われました。
それがもう尋常じゃない痛さで「もしかして死ぬのかな?」
と思いました。どうにもならないので社長に電話して。

社長が救急車を呼んでくれて私は搬送されました。
 #救急車が来たときにこっちは痛くて死にそうなのに
 #金はあるのか? 保険はあるのか? とか聞かれて
 #金も保険もあったけど「ない」って言ったら
 #そのまま帰るつもりですか? とかなりカチンと
 #来たりしたのはもう笑い話です。

そして私は横浜総合病院に入院しました。
激痛の原因は尿路結石で3日ぐらい入院しました。
でね、その入院中にものすごく困ったんですよ。
入院

英語ができるナースがいなかったために
全くコミュニケーションがとれず、そればかりか
ドクターもあまり英語ができかなったため、
症状の説明を日本語でされても全く理解できませんでした。

結局社長や役員が病院に来てドクターの話を聞いて
病状を英語で私に説明してくれたんですが、
社長も役員もずっと病院にいるわけにはいきませんから。

やっぱり日本で暮らしている以上は、最低限ではなく
ある程度のレベルの日本語が使えないと、
こういう非常事態に困るんだな〜と痛感しました。

自身の病気ばかりでなく、何か災害や事故にあったときなどにも
日本語があまりわからないという状況だと、それが原因で
命を落としかねないなと。

この頃には「よっぽどのことがない限りずっと日本で働くだろうな」
という覚悟が自分自身の中にもできていたので、この入院騒動を
きっかけに日本語の勉強を始めました。

当時テレビはビデオを見るだけだったのですが
 #TVをつけても日本語だから何を言っているのかわからない
日本のTV番組も積極的に見るようになって、当時のお気に入りは
ドラゴンボールとドラえもんでした。<アニメかよっ!!

日本の運転免許証を手に入れる

来日当時は、インドの運転免許証は取得していた私。
日本に来た当時は、車は運転しないで、電車で移動するか、
会社が契約しているドライバーさんの運転する車で
移動していました。

1990年代に入り、日本の生活にも慣れてきました。
やっぱり自分でも車を運転できた方が便利です。
それに日本では運転免許証はもちろん運転するために
必要なものですが、身分証明書としても万能です。

もちろん身分証明書としては外国人登録証を
持っていたのですが、それでは役に立たないことも
多かったのです。そんな事情から日本の運転免許証を
取得しようと思いました。

インドの国際免許を手に入れるという方法もあったのですが
インド人の私が言うのも変ですが、
インドのお役所を相手にするは根気が必要です。
ものすごく時間がかかるんです。
しかもなぜかミスが多かったりします。

これは1990年代の当時も、インターネットもすっかり普及した
昨今でも残念ながらあまり変化がないようです。

というわけで日本の運転免許取得に取り組みました。
変な話ですが、当時から日本においてはインドの運転免許証の
信用度が低く、インドの運転免許をサクっと
日本の運転免許に書き換えてくれる的な処理は
ありませんでした。
 #諸外国の免許も同様だったかもしれませんが。

そこで、まずは標識なんかを一生懸命覚えてね。
適性試験、学科試験(英語)と技能試験を受験して
仮免許を発行してもらいました。

当時立派な道路はあったけど、区画整理されただけでなんにもなかった
港北ニュータウンで、友人の指導のもと路上で練習しました。
もう夜は真っ暗で怖いぐらいの感じでした。
 #センター北駅では防犯ブザーを貸出ていたくらいです
その後、本免許の受験、合格しめでたく日本の
運転免許を手に入れました。

自分で車で移動できるようになって、生活も変わったし
オールマイティーな身分証明書を手に入れたおかげで
すいぶん暮らしやすくなりました。
日本の運転免許証

1990年代携帯電話

ポケベルをしばらく使った後に1990年代の前半には、会社から
携帯電話が支給されました。支給されたとういうより持たされた
という方が正しいですね。

当時出没先が、セントラルキッチン、あるいは本社事務所、
また営業している店舗が5〜6店舗あったので本当に
どこにいるかわからない感じで。私が判断しなくてならない事も
多かったので、常時連絡可能な体制をということで。

私が使いこなしていないだけだったのかもしれませんが、
当時は通話のみでメールは使っていませんでした。
というかみんなが持ってないからメールする相手も
いないしね。

黒くて大きくてかわいくない電話ばっかりでしたね。
電池も持たなくて毎日充電しないとダメでしたね。
 #近年は別の理由で電池が持ちませんね。
 #大容量メール送受信やネット接続などでバッテリー消費が
 #激しいので。

FOMAなんてまだなくてMOVAだったね。今の端末にはないけど
アンテナなんかもついてましたね。

当時、まだあまり一般に携帯電話は普及していなくて
その上私はガイジンなもので、携帯電話を使っていると
かなり周囲の視線を感じました。いまじゃ小学生も普通に
持ってますけどね。

携帯ケース
携帯電話はもう手元にないですが、なぜかケースだけを最近発見。
ドコモ純正のケースで本皮製です。1万円ぐらいしたと思います。
側面は全体がゴムになっていて端末本体にフィットするように
なっています。今と違って相当分厚い端末でした。
当然ストレート端末だけで、今みたいに折りたたみなんて
なかったですし。

■今使っている電話
iPhone
WX330K

ポケットベル

ポケットベル。略してポケベル。若い人は知らないでしょうね。
当時ポケベルはNTTドコモと東京テレメッセージがサービスしていました。
私が使っていたのはNTTドコモのもの。

ポケベルに電話するとポケベルから単に音が出るというものから、
メッセージが出せるものなどいろいろありましたが
黒っぽくて四角いのが基本形でした。
外回りの営業さんの持ち物って感じでしたね。

ポケベルが鳴ってメッセージが入ると指示された連絡先に
公衆電話から連絡するという感じですね。

私が最初にポケベルを持ったのは1980年代の後半。
当時すすき野にセントラルキッチンがあって、たまプラーザの
本店と他にいくつか支店があって、それを統括していたので
いろんなところに出没していたんですね。

ポケベルは自分で買って個人的に使用していたのですが、
いつの間にか会社にも番号がバレていてよく呼ばれてました。
今では個人情報保護ということで勝手に人の電話番号を他人に教えたり
しませんけど、昔はそういう点も緩かったですよね。
もちろん人によると思いますが。

英語を勉強する

1985年に日本語はゼロの状態で日本に来た私。

英語は学校で習っていたので日常会話はできました。
でもとても「英語が使える」と言えるレベルではありませんでした。

それにはその頃のインド特有の事情もありました。
誤解を恐れず発言させていただきますと、
私が学生だった頃は時代として、少なからず反英感情
というのがありまして、私自身が英語を
習得することにあまり気持ちが入らなかったという
事情がありました。

もちろん、現代のインドの学生や若者達は
そういうコダワリは全くないと思います。

そんなわけで、日常会話には困らないものの、
自由自在に英語を使いこなすところまでは達していませんでした。
少なくともビジネスに支障なく使えるというレベルでは
なかったです。

日本で仕事をするからには
本当は日本語を勉強できればよかったのですが、
当時は英語以外の言語を母国語にする人のための
日本語を勉強する場やツールを手に入れることが
困難でした。

例えば「日本語−ヒンディ語辞書」
などをみつけることができず、ヒンディ語を介して
日本語を勉強するという術がなかったんです。

実際当時仕事をする上で、会社の社長や日本人の上司と
意思疎通を図るためには、とにかく英語をなんとかするのが
一番近道でした。まず必要なのは英語。

また日本に来たばかりの頃は、いつまでこの国に
いるかという見通しがたたないという気持ちもあり、
英語はどの国に行っても通用するだろうし。
とにもかくにも英語だぞということで。

最初はインドからテキストを送ってもらって自分で
勉強していました。そんなある日たまプラーザの
公衆電話待ちの行列で、オーストラリア人の
男性と隣り合わせになりました。まぁ、お互いヒマですから
ちょっと話をしたりしているうちに意気投合しまして仲良くなりました。

公衆電話の順番待ちで何度か会っているうちに、うちに遊びに来ないかって
ことで、アパートにご招待して、インドカレーをご馳走したんですね。
そこでまた話が盛り上がりまして
「また遊びに来てよ。インドカレーもご馳走するよ。」という話に
なったんです。「え?本当本当?!オレ毎日来ちゃうよ。」

みたいな展開で。実際その日以降、ほぼ毎日彼は遊びに来ました。
夕ご飯を食べながら毎日1時間ぐらい英語で話をしてました。彼が
帰宅した後は、自分で1時間ぐらい英語を勉強していましたね。
勉強

そんな生活はエンジニアの彼の職場が引っ越すために
彼もアパートを引っ越すということで、ご近所さんでなくなる
までの半年間ぐらい続きました。

その頃は私も若かったですし、その期間、彼とすごしたおかげで
だいぶ英語が上達したんです。私はインド飯を提供し
彼は英語を教えてくれて。まさに give&take な関係でしたね。

本当は「英語が母国語の彼女ができた」なんて話がネタとしては
面白かったんですが、残念ながらそういうのはありませんでしたねぇ。

国際電話は公衆電話で

私が日本に来たのは1985年。日本語はゼロの状態で日本に来ました。
当時、アパートにあった電話は黒いダイヤル式の昭和の電話。
いまは骨董屋さんに行かないとないですよね。
黒いダイヤル式の昭和の電話

その家にあった電話機では国際電話をかけることができなくて
 #やればできたのかもしれませんがとりあえず
 #方法がわかりませんでした。
インドに電話するときは、テレホンカードの使える公衆電話から
電話していました。緑色の公衆電話。

国際電話ができる公衆電話というのが当時、私の行動半径内では
たまプラーザ駅にありました。1台だけ。仕事の終わる時間になると
この公衆電話には外国人の行列ができました。みんな並んででも
国際電話するということは、やはりみんなも自宅の電話から
国際電話はできなかったんでしょうね。

長いときは2時間も3時間も並ぶこともありました。短くても1時間とか。
3000円のカードでも10分から15分ぐらいしか話すことができませんでした。
お金もかかるし時間もかかるし、頻繁にインドに連絡することは
できませんでした。

今ではパソコンと回線を持っていればskypeで無料で動画付で
海外と通話できるなんて当時の私が知ったらさぞ驚くことでしょう。
そのころは携帯電話もなかったですからね。

当時、都心には外国人はたくさんいたのでしょうが、まだまだ郊外だった
たまプラーザ駅周辺には、それほど多くの外国人は住んでいませんでした。
でもってみんな国に電話するために公衆電話に集合するものですから、
公衆電話に並んでいるのはいつものメンバーなわけですよ。

お互いの名前も仕事も出身国も知らないけど、
顔とこの近辺の住人であるらしいということはわかっているという
微妙な距離感の関係でした。

ちなみにテレホンカードってまだ売っているんですかね?
公衆電話があるということはまだ売っているんですね。きっと。
最近は公衆電話も少なくなりましたね。

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